[資料室]
Q L D 句 会 の 歴 史


■2005/01/22 QLD句会の歴史/中ちゃん

 QLD句会の歴史をお話しするためには、まず私事から述べなくてはなりません。

 私は昭和62年ころ、38歳で名古屋の精神障害者リハビリ施設で所長をしてい
ました。当時、精神障害のリハビリに俳句が向いているという説が出され、私は自
分のリハビリ施設にも俳句を取り入れようと考えました。私はまだ、俳句をやった
ことがありませんでした。

 最初はまず指導者探しです。いろんな俳句の先生に、リハビリ施設に来てくださ
るよう頼んだのですが、全部、断られました。まだ、精神障害者差別の強いころで
した。

 そんな中、ただお一人、浅野右橘(あさのゆうきつ)先生だけが「あぁ、いいよ」
と来てくださったのでした。浅野先生、72歳のときでした。私の俳句人生もそこ
から始まりました。浅野先生が主宰をされている結社「牡丹」に入りました。

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 私は浅野先生に恩義を感じ、以来、浅野先生の結社に所属して、今年で17年に
なります。浅野先生は、ホトトギス同人で、虚子のかばん持ちをしたころもある、
いまや重鎮です。浅野先生の影響で、私の句は今でもホトトギス的です。

 浅野先生は残念なことに、平成16年11月にご逝去されました。浅野先生は、
当QLD句会も兼題や選句を通じて、12年間お世話になりました。浅野先生がご
逝去された以上、私は結社「牡丹」を辞めようかとも思っています。

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 ところでQLDという名称についても述べておかなくてはならないでしょう。昔、
パソコン通信のPC−VANというネットに、魔女というハンドルネームの天才プ
ログラマーがいました。

 今でこそ画像通信は当たり前ですが、平成の初めには、パソコン通信で画像をや
りとりするのは大変なことだったのですよ。その難関を、独創的な発想とスキルで
切り開いていったのが魔女さんでした。

 QLDというのは、魔女さんが作った画像ローダーの名前なんです。最初のロー
ダーがALD、次がBLD・・・というように改変を重ねQLDで一応の完成を見
たようです。

 で、魔女さんはQLDというシグ(フォーラム)をPC−VANに作ったのでし
た。私がリハビリ施設で俳句を作っているころ、こういうことをしている人がいた
んですね。

 当サイトの資料室の「秘史QLD」に詳しいように、たぶんアグレッシブなタイ
プの魔女さんは、PC−VANで大暴れしたようです。そして、ニフティサーブに
引っ越してQLDフォーラムを立ち上げて気勢をあげたようです。(ちょっと、違
うかもしれない)

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 魔女さんは、平成の初めにバイクによる不慮の事故で亡くなられました。こうし
て、天才プログラマー魔女は、伝説となったのでした。でも、私はそんなことはい
っこうに知らず、まだパソコン通信さえしていませんでした。

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 平成3年、私は名古屋から、同じ愛知県の豊橋市(名古屋から新幹線で30分)
に単身赴任となりました。宿舎での夜はとても寂しいのです。かねがねパソコン通
信をやりたいと思っていたし、パソコンはTK80(知る人ぞ知るパソコンの元祖)
時代からいじっていたので、接続、設定はすぐにできました。PC−VANは場が
荒れていると聞いていたので、私はニフティーサーブを選びました。

 チャットにはタイマイをつぎ込みました。だって、一人ぼっちの夜には面白いん
だもん。
 
 フォーラムはFIGOという囲碁のフォーラムに入りました。ボード碁という一
日一手という、ひどく気が長い碁を楽しみました。まぁ、今で言えば、掲示板に一
手を書き込むようなものですね。それでも、とても楽しかった。碁よりも、おしゃ
べりが楽しかったわけです。
 
 その、おしゃべりの最後に、私は俳句を一句付けるようにしていました。

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 そのころ、FQLDフォーラムでは、しんじさんが画像と関係なく、「今から老
後の楽しみを作りましょう」と、俳句の部屋を設けました。私はそんなことは知り
ませんでした。FQLDの俳句の部屋には、俳句の作法を知っている人がまったく
おらず、なんだか川柳だか都々逸だか分からないような「俳句」をアップして、お
互い無邪気に楽しんでおられたようです。
 
 そのころ、FQLDのシスオペのひばりさんは、FIGOのシスオペを兼ねてお
り、私が俳句をたしなんでいることは知っていました。ひばりさんとしては、FQ
LDの俳句の部屋に、俳句の心得のある者が必要と考えたのでしょう。そこで、私
がFIGOからFQLDにスカウトされたのでした。当時FQLDは過激なフォー
ラムという噂がありましたので、私は恐る恐るFQLDのしきいをまたいだのでし
た。

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 平成5年5月、私はFQLDに来ました。そしたら、みなさまの暖かい歓迎を受
け、「これが噂のQLD?」と思ったものでした。
 
 私は「よし、世界で初めてオンラインで句会をやってみよう」と思い立ちました。
でも、やりかたが分からない。生句会は知っているのだが、オンラインでどうやっ
てやるのか分からなかったのです。

 そのことを話すと、しんじさんから生句会をシミュレートする方法が提示されま
した。「そうかぁ、そんな方法もあるのかぁ」というのが、当時の私の感想。

 こうして、平成5年6月には、すでに第一回QLDボード句会が始まったのでし
た。なんだか、私は毎日、興奮していました。だって、自宅でいながらにして句会
ができるなんて、考えられなかったからです。

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 以来、今日までQLD句会は続いています。最初の参加者は8名だったかな?と
にかく、こぢんまりと始まりました。最盛期には25名を超える参加者がありまし
た。この句会が成功したのは、しんじさんのアイデアが卓抜だったことはもちろん、
FQLD特有の結束でもって、乱真澄さんや藤井ぴろしきさんが支えてくださった
おかげと思います。

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 私がFQLDに迎えられたころ、私は句歴5年でした。いまや、句歴17年、も
う、どう取り繕ってみても初心者とは言えませんね。でも、俳句はほんの少し上手
くなっただけ。もっとも、鑑識眼のほうはすっかり熟練しました。作るのと鑑賞す
るのとでは違うのです。

 上手くなる人は最初から上手い。あるいは2年くらいで、もう自分の世界を作り
出してしまう。最初から上手い人の典型があれふさんでしょうね。彼は角川俳句賞
候補になりました。2年くらいで上手くなった人の典型はこひつじさんでしょうね。
彼女は結社「好日」の新人賞を取り、最近は船橋市の市報のトップを3年続けてお
られるそうです。

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 こうして、QLD句会はニフティーサーブで、12年間3百回も続いてきたわけ
です。今後もウェブに移って続けられそうです。野浮さんが、ウェブサイト作りを
引き受けてくださって、ほっとしています。(ちなみに、私は12年間、野浮さん
とお会いしたことがありません。QLD句会隆盛のころは、オフラインミーティン
グが盛んで、かなりの人が顔見知りなのですが、野浮さんとはお会いしていません)

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 いまでも忘れられないオフは、平成7年だったかな、御茶ノ水で行われたオフで
す。すごい参加人数。それを取り仕切ったのはフリージャーナリストのいづみさん
でした。
 昼食を御茶ノ水のレストランで皆ですませ、そのあと吟行。そして、孔子象のあ
るナントカという古い建物で句会。夜は、大宴会。めちゃめちゃ楽しかったです。
樽金さんと初めてお会いしたのも、そのオフでした。あこちゃんも新潟の長岡から
日帰りで駆けつけてくれた。ほんと、面白かったですね。

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 でもやっぱり、もっと印象的なオフは、QLD句会が出来てから1年ほどたった
ときに行われた、水道橋オフでしょうね。私はオフというものに初めて出席しまし
た。ボードの上で会っていた者たちが、ほんとに初めてじかに会ったのですよ。こ
れは感動的でさえありました。
 あぁ、みんなこういう人たちなんだと、とても新鮮に思いました。当時は、こひ
つじさんが自称、宴会部長を引き受けてくださり、QLD句会の初めてのオフも彼
女のおかげで実現したのでした。

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 私にとっては、平成9年に、愛知県豊橋市の私の自宅の新築披露のオフも思い出
に残っています。樽金さんは奥様を、こひつじさんは娘さん3人を連れてきてくだ
さいました。早香さんと、こひつじさんご一家は拙宅に泊まっていかれました。ほ
んとに楽しいサークルでした。クリトンさんは大阪から、たんこさんは名古屋から
来てくださいました。

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 QLD句会の思い出話は、まだまだ続きます。不定期に更新します。


■2010/05/08 QLD句会の歴史2/中ちゃん

 前回、私がここに「QLD句会の歴史」を掲載してから、すでに5年の歳月が流
れました。その間、いろいろなことがありました。一番大きな出来事は、ニフテ
ィサーブのパソコン通信が廃止になったことでしょう。

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 QLD句会の始まりはパソコン通信でしたから、それがなくなっては大ごとです。
句友一同悩みました。QLD句会はこれで終わるのかとも思いました。ところが、
当時、普及してきたインターネットで句会を続けようという機運が高まり、
具体的な模索が始まりました。

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 一番に名乗りを上げてくださったのは野浮さんでした。ご自分のホームページ
で句会を続行しようとおっしゃるのです。そのご提案に甘えて、続行することに
なりました。システムエンジニアであった野浮さんは、それが可能な画面を作っ
てくださいました。表紙絵は、しんじさんから送られました。
(今の表紙絵です)。

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 こうしてQLD句会のインターネットへの移行は、滞りなく行われました。掲示
板への不謹慎な書き込みもありましたが、番号を同時入力する方法で切り抜けま
した。こうした、こまごまとしたことは、すべて野浮さんが実行してくださいま
した。

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 インターネットに移行してから衰退してきたのはオフでしょうね。パソ通の世
界ではオフは常識でしたけれども、インターネットではそうはなりませんでした。
この5年間にオフをしたのは2回でしょうか?いずれも東京国際フォーラムのイ
ベリコ豚うまい店。参加者は私以外は、越冬こあらさん、甘納豆さん、こひつじ
さんで、いずれも東京近郊の方々です。昔のように大阪から北海道からオフに駆
け付けるという風習はなくなりました。(2回目のオフのとき偶然の用事があっ
て、屯さんが北海道から来てくれましたが)。

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 もうひとつ大きな出来事は、2008年9月に野浮さんが膀胱癌で亡くなった
ことです。私は野浮さんとは長い付き合いなのに、とうとう一度も会えませんで
した。宇都宮に住んでいた野浮さんは、車椅子生活者で東京でオフがあっても出
て来られないのでした。

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 ここでもまたQLD句会は窮地に陥りました。それは野浮さんのホームページを
借りて句会が行われていたからです。野浮さんが入院して闘病生活中、病院では
インターネットができないと言われていたので、私は何通も野浮さんに葉書をか
きました。お返事もありました。私の葉書を読んだ野浮さんのお兄様が、パソコ
ンに詳しい友人の手を借りて、掲示板に野浮さんの訃報を載せてくださったので
した。

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 私はさっそく妻と野浮さんの宇都宮のご自宅にご焼香にうかがいました。野浮
さんのお姉さまとお母様が接待してくださいました。このとき遺影で初めて野浮
さんのお顔を拝見しました。そのあとすぐに、早香さんとこひつじさんが、野浮
さん宅に服喪の挨拶に行かれました。そのときに野浮さんの遺品であるノートパ
ソコンから、QLD句会の全データを持ち帰ってくださったが早香さんでした。

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 早香さんは、その全データをご自分のパソコンに移植し、現在のQLD句会があ
るわけです。このとき、早香さんがデータを持ち帰らなかったら、今のQLD句会
はありません。早香さん、ありがとう。

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 もう一つ訃報があります。それは、たんこさんが直腸癌で今年亡くなったこと
です。中ちゃん宅オフにも来て下さり、俳句は決して上手ではなかったけれども、
熱心に出句してくださいました。囲碁の強い方でした。今、消息の分からない方
も何人かはお亡くなりになっているのでしょうね。もう、QLD句会も17年もた
ちましたから・・・。

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 俗世さんは80歳にしてご健在です。毎年、俳句がついたカラープリンタの賀
状をいただいています。奥様の子々さんもご健在と拝察します。勝坊さんもすご
いですね。80歳過ぎてからもパソコンやプリンターを操るとは。

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 この5年間の私事ですが、私は2005年に病院を辞め、豊橋駅前で開業しま
した。子供たち(長男、長女)はいずれも結婚し、長女は2人目がもうじき生ま
れます。

更新日:2010/05/10


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