ネコジタの死

Nekojita_Sashie

 人間の五感の中では視覚が際立っていることは、テレビで肉体の一部を切断するシーンを等を見るとき、その痛みが直に伝わってくるように感じることによって、経験的に理解できる。そう多くの機会があるわけではないが、映像ではなく生身の人間相手でも同じように痛みを感じるのではないだろうかと、漠然と考えていた。

 しかし、ネコジタの額が割れて血が噴き出し始めた今、私は何の痛みも感じていない。ただ、鈍い音を発してネコジタの額を砕いたばかりのクリスタルの灰皿が右手に重く感じられた。

 「心臓の鼓動が早くなる」はマルだが、「気が動転して何が何だかわからなくなる」はバツだ。相手の痛みの影響を受けない私の頭脳は、正常で冷静な思考を司ることができた。原因は私とネコジタの卒業以来の確執。きっかけは私の借金とそれに絡んだネコジタの罵声。「犯人は被害者と口論になり、カッとして犯行に及んだものと思われます」頭の中で架空の報道原稿が読み上げられている。
「これもあんたの運命さ」どこかで聞いたような台詞をもう焦点も 結べなくなった両目のあたりに注いでみる。不覚にも涙。

 完全犯罪とまではいかないにしろ、せめてうやむやのうちに時効が成立するくらいにはならないだろうか。幾つかの小説やドラマのストーリーが浮かぶ。

 午前10時、ネコジタが独身で金を貯めていることを聞きつけた空き巣狙いが、今朝彼が出社しなかったことを知らずに侵入。いきなり現れた主を見て発作的に殺害。何も盗らずに逃亡。あとは私の アリバイが証明されればよい。

 まず証人だ。私は白い受話器を手にとった。事務所に電話を入れ、融通のききそうな得意先の名前を告げて……やはり、多少の気の動転は否めないようだ。事務所の番号が出てこない。
 ポ、ポ、パ、一日に何回となくかける番号なので、指が憶えていたのだろう。プー、プー、「ハイ110番」え? 「あのー俺、人を殺したみたいなんだけど」ええ?? 私も驚いたが、警視庁のオペレーターも沈黙……。その隙に、私は同じ科白を繰り返す「俺、人を……」そうだった。沈着冷静でいられるはずだ。私はこっち側じゃなく、ネコジタだったのだ。

 魂の存在さえ怪しい程の興奮状態に陥っている犯人の体から離れ、被害者の自分に追いついたときには、もう暖かな光に包まれた花畑を半分以上も横切っていた。「これも私の運命さ」涙もなくなった今、無い声帯でつぶやいてみた。


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