洗脳

Sennou_Sashie

 日曜日の朝、目を覚ますと妻がベランダで洗濯をしていた。珍しく、タライと洗濯板を用いて、極彩色の物体をザブザブと洗っていた。
「何を洗ってるんだい」
「あら、起きたの。これ、あなたの脳味噌よ。昨夜ずいぶん落ち込んで、『死んでやるー』とか騒いでたでしょう。布団に入ってからもうなされてたから、変なシミにならないうちに洗っておこうと思って。」
「そうか」そんな事が出来るのか。初耳だ。世の中便利に成ったものだ。納得し、居間の卓袱台の定位置に坐る。そう言えば何だか頭が軽いような気がする。ちょっと振ってみる。

 朝食をすませて、湯飲みに茶を注ぐ。ふぅーふぅーずー。という事は、私は今、脳味噌無しで動いているのか。日常の簡単な動作や会話は、いちいち脳味噌にお伺いをたてなくても、筋肉の辺の神経か何かが適当に制御するんだな、きっと。ずずー。新聞を取る。ん、何だか文字が怪しいぞ。見出しの文字を読んでみる。「首…、……自……を21世…に実…」そうか。難しい漢字を読むには脳味噌が必要なんだなあ。ひとしきり感慨にふける。感心してたら、眠くなってきた。

「あなた、起きて下さいな」肩を揺すられ、うたた寝から覚めた。「急いで乾かしたから、少し湿っぽいところがあったけど、とりあえず戻しておきましたからね、脳味噌。私、ちょっと買い物に行ってきますから。あなた午後から出掛けるって言ってなかった?」そう言うと妻は出て行った。
 私は卓袱台の定位置で、洗いたての脳味噌の感触を楽しんでいた。ぬるくなった茶を啜る。ずー。そうだ、さっきの新聞の見出しが読めるようになったか試してみよう。「首…、…発自…化を21世…に実施」まだ所々判らない漢字がある。きっとまだ少し湿っぽいからに違いない。こめかみの辺りを叩いてみる。経過時間と乾燥具合と漢字判読能力の相関関係を調べてみると面白そうだな。その時、電話がなった。
「はい、もしもし」
「あああ。課長、まだうちに居たのお。アタシもう30分も待ってるんだからあ。早く来てよお」聞き覚えのある声だ。同じ課の女性に違いないが、なんだか妙になれなれしいなあ。と考えているうちに電話は切れた。私は受話器を置いて、相手の女性の名前を思い出そうとした。ずずー。

 駅前の喫茶店で、相原 由紀は携帯電話をテーブルに置くと、またファッション雑誌を眺め始めた。隣の客は朝刊を読んでいた。「首相、原発自由化を21世紀に実施」



更新日 99/11/15
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