蒸発

jouhatsu_Sashie

 早期依願退職制度という名のリストラについて、全体説明を受けた後、部長に呼ばれ、持って廻った慰労の言葉を頂戴した。つまりはそういう事かと午後は、早退した。
 早春と呼ぶに値する事象は何もない暦の上だけの昼下がり、コンクリート舗装の坂道を登りつつ、会社人間であった半生を思った。様々なものを犠牲にして、仕事にしがみついてきた。ここで放り出されても潰しが効かない。将来の不安が目の前に白く広がり始めた時、左の靴が音を立てて落下した。何が起きたのか理解する前に、落下した靴の上に靴下が被さり、右の靴、靴下、鞄、コート、背広、ワイシャツが歩行速度に合わせて、順々に落下していった。体が先端から消滅し、私は蒸発を果たした。
 妻は、知ったかぶりのテレビが低く語り続ける部屋で昼食後のひとときを紅茶していた。しばらく休んで、昼食の片付けとアイロン掛けを済ませ、夕方の街に青い篭を下げて、買い物に出掛ける。夕食を支度して、帰宅した息子と食べる。明朝、一晩家を空けた私の所在を明らかにしようと会社に電話を入れ、その後、友人や親戚に連絡し、早ければその日の夕方、遅くても一両日中に警察に連絡。事件や事故との関連が調査され、所持品と衣類の一部が遺失物とし て発見される。蒸発した事がそれと認識されるのは一、二ヶ月たった頃だろう。元来、生活力のある妻の事だから、半年もすれば全ての状況を受け入れ、息子と暮らしてくだろう。

 開け放した窓からセミの声が聞こえる。それは後姿の夏と同じく力が欠けている。妻は、プラスチックで作ったような殺風景な事務所の机で、中年の男から書類の説明を受けていた。
「所定の期間が経過しましたので、この書類に捺印頂いて、こちらから警察に申請致します。手続きが完了すれば、御主人は捜査依頼が提出された日時に溯って、変死という扱いになりますので、保険金と死亡年月日からの利息を合わせてお支払い致します」
 差し出された書類をしばらく眺めた後、
「主人は、生きています」と妻は捺印を拒んだ。
「しかし、それでは保険金はお支払い出来ませんが……」
力が欠けたセミの声。
「生きています」と涙。

 この涙が核となり、私は時間を溯り、体は凝固し始めた。
 早春とは名ばかりのコンクリート舗装の坂道に下着姿で立っていた。会社人間から会社を取っても人間は残る。生きるのに必要なのは生きる事だけだ。散乱した衣類を拾い集めながらそう考えた。



更新日 03/04/05
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