豚妻

Tonsai_Sashie

 ネクタイを締めて振り向くと妻が豚になっていた。私はたいへん驚いたが、遅刻しそうだったので、咳払いひとつに抑え、家を出た。背後から聞こえるはずの「いってらっしゃーい」は、ブーブーブーだった。
「過労で神経がまいってる」「飲み過ぎて酒が残っていた」等、幻覚のたぐい、もしくは「妻のお茶目な冗談」「息子の仕組んだバーチャルリアリティー」等、悪戯か何か。朝夕のラッシュと昼休みを費やして、以上の点を軸に推理の展開を繰り返した。
 いずれにしても結論は、その日のうちに出るはずだったが、帰宅、夕食、団らんと経過しても妻は豚のままだった。そして、不思議なことに私以外は息子も含め、妻が豚であることに何ら関心を示していなかった。息子は妻のブーブーを理解し、相づちを打ったり、文句を言ったりさえしていた。
 翌日より三日間、事態の異常さに合わせて、SF的な拡がりも視野に入れて論理の展開を試みた。「神がかり、魔法系」「動物霊祟り系」「悪夢、深層心理系」等それなりの参考文献も参照したが、私自身とんかつが異常に好きだとか、先祖が豚を大虐殺したとかいうこともなく、夢に出てきた魔法使いに三つの願いを持ちかけられたり、怪しい取引もしていない。つまり、原因もきっかけも皆無である。
 妻は、偶蹄目の前足を器用に操って、炊事や掃除、洗濯も普通にこなしている。スーパーや銀行に行ったり、サークルやママさんバレーも何の問題もないようだ。つまり、妻はずっと以前から豚であったようなそんなしっくり感をもって、淡々と生活しているのだった。
 休日を待って、押し入れアルバムを引っ張り出して調べたが、どの写真を見ても妻は正真正銘の豚だった。花嫁衣裳は少し似合ってさえいた。これは一体どういう事なのか。

 論理的でない状況に身を置くことは耐えられないので、これまでの科学的アプローチを多少逸脱するが、次の推論を持って最終的な結論と決定する事にした。

「この問題は私の内部に発生し、私の内部に帰結するものであり、目の前に白豚が立っていた瞬間に『妻と白豚が入れ代わった』という科学的で健全な判断を怠り、『妻が豚になった』と考えた事が原因である。世の既婚男性に共通する『妻なんか人間でも豚でもいい』という潜在的な意識が、瞬間的に認識機能を狂わせ、目の前の白豚イコール妻という判断に普遍性を与えた」

 ふと我に返ると、夕食が冷めると妻が、ブーブー騒いでいた。



更新日 99/11/15
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